ラグビー部の歴史 / history

【番外編】中瀬真広さん特別ロングインタビュー(中篇)

 現役時代で一番印象に残っていることを教えてください。思い浮かぶシーンは?

大森グランドでひたすらキックを蹴っていたことですね。本当に僕が蹴っていた場所の芝生に穴が開いていましたからね。練習が9時半くらいに終わって、そこから1時間くらいはいつも蹴っていましたね。周囲でよく努力していたのは小関でしょうか。僕とは同期で、今でも本当によく頑張っていると思います。
僕は、もともとは高校時代からキッカーとして蹴ってたんですが、あるとき自分なりの練習法を見つけたんです。ちょうどその頃、僕のキックの弾道が左にカーブする傾向が出てきてしまって、よくあるようにゴールポストだけ狙っていてもそれがなかなか修正できなかった。そこで実線のライン上で蹴るようにしたんです。少し専門的なことを言うと、試合の際、右から蹴るとき左から蹴るときでゴールポストの見え方が変わるんですが、とにかく揺らぎなくまっすぐに蹴る練習をしておけば、そういうことを関係なしに狙えるということに気が付いた。この練習をするようになってから現役最後の3年くらいほとんどキックを外さなくなりました。なんでもっと早く気が付かなかったのか。(笑)

 現役時代を振り返ると、華々しい試合のシーンではなく、夜の居残り練習が思い浮かぶ、と。引退されてから、11年。そこからどういった経緯があってコーチというキャリアに繋がっていくのでしょうか?

僕が選手に専念していたのは2004年のシーズンまで、引退の直前は林雅人さんがヘッドコーチをやってくれていて、2005年から林さんが他のチームへ行くことに伴ってその役が僕に引き継がれたわけです。現役の引退をする気持ちが固まる前のことです。従ってそのシーズンはプレイヤーをやりながら兼任でコーチをすることになりました。これが僕にとってのコーチ、はじめの一歩です。

コーチという役割にはすぐに慣れましたか??

経験がないわけですから、始めたばかり頃は、見たものを真似てやるしかなかった。そこで誰を倣ったかというとそれはもう明確で、間違いなく僕が一番影響を受けたのは林雅人さんです。方法論を断言し、言葉でも選手をその気にさせる方法に感銘を受けました。この時はいろいろ試行錯誤をしましたが、やはり、知っていることとできることは違って、当時のメンバーは一生懸命ついてきてはくれましたが、やはりうまくは行かなかったです。コーチとして僕がいろいろ思いを巡らせて指示をしても、プレーするのは選手達であって、その通りにいくわけはない。それなのに、コーチとしての経験が浅かった頃は、自分が考えることを全部やらせようとしてしまいました。東京ガスでコーチをしているときは遠慮なくキツイことを言うタイプでした。それが当時のトレンドでもあったんですよね。しかしその後、2008、2009年の2年間、法政大学でもコーチをするようになるんですが、同じ方法が通用しませんでした。
コーチという立場は本当に学びが多いです。例えば、コーチ研修というものがあるんですが、そこで教わったことで、心に刺さったものがあって、選手はコーチにアドバイスされたことを忠実にやろうとする。それを見てあげないといけないんだ、と。何かに気が付いて、一言アドバイスをしたらその次にその選手がプレーしているときは、必ず見てあげないといけない。これはその通りだと思い、気をつけています。

 母校法政大学でもコーチをされたんですね。

法政では2年間コーチをしました。当時の法政大学は優秀な選手が揃っていたんですが、体系的に戦略・戦術を教えられておらず、そこは僕が力を発揮できると思える部分でした。これを物語るエピソードに、当時の選手から吐露された言葉があり、「試合には勝ったけれど、今回どうして勝ったのか、理由を分析できない」と相談されたことを鮮明に覚えています。能力のある選手達が集まり、いい雰囲気で自由にやれば気持ちよく勝つこともあるが、そこになぜ?というストラクチャーがなく再現性が出せないんですね。

僕はこの法政大学の学生との接触で「いいものをいいと褒めることの大切さ」を学びました。僕は基本的に1、2軍のコーチだったんですが、ある日、偶然3軍以下の選手のいいプレーが目についたんですね。それで、ごく自然なカタチで練習中に「いいプレーだった」とその選手に一言伝えたんです。特に大げさな表現ではなかったはずです。ところが、その練習後、この選手が僕の元を訪れて「中瀬さん、僕4年間の大学ラグビー人生で初めてコーチに褒められました」って真顔で言うんですよ。それを聞いてはっとしました。選手から見た時にコーチから何気ない一言をかけられるってこんなに嬉しいんだなって。確かに自分が選手だったころを振り返ればそうですよね。そして、ふと、「これがこれからの自分のコーチとしての向き合い方の一つの切り口になるんじゃないか」と思ったんです。
しかしこの時代にも後悔はあって、当時の法政大学は日本一になれる可能性もありましたが、最後の最後、プレッシャーのかかる試合で、選手達が自分の意志のもと正しい判断でプレーできるまでには至りませんでした。チームとしての規律や選択肢を落とし込むことと、選手の判断力と決断力を養うことのバランス、これら両方を同時に育成することはコーチとして常に気を付けなければならないところであり、難しいところでもあります。

この法政大学のコーチを2年勤めた時、ちょうど2人目の子供が生まれて、コーチとしての仕事はいったん間があいてもいいかなと思っていました。ここまで妻にも多くの迷惑をかけていたし、少しの間ラグビーから離れてもいいかなと。しかし、そこでまた一つ人生の転機がありまして。

ちょうど新しいU20日本代表の監督に神戸製鋼の元木由記雄さんが就任するというニュースが流れて、その記者会見の様子をインターネットで偶然見ていたんですね。僕も元木さんとは同じチームでプレーをした経験があり面識があったので、「あ、元木さんがやるのか」と完全に第三者としてその様子を見ていたんです。そしてその夕方、家に帰って食事をした後、21時くらいに携帯が鳴ったんです。見たことのない番号で「誰だろう?」と思い取ったらなんと、その元木さんからで。はじめは悪戯かな?とすら思ったんですが、どうも本人の声なんですよ。それで「今度、実はU20の監督をやることになって……」なんて言うから「いやさっきまさにその様子を見ていましたよ」と答えたんですね。そうしたら「今度お前にコーチを手伝ってもらいたい」と言われて。これには驚きました。ずっとお会いもしていませんでしたし、どういう経緯で僕を見つけて選んでくれたのか、全くわからないわけです。ただ、U20とはいえ日本代表ですから、すぐに自分にとってこれは大きなチャンスだなと思って、「やりたい」と伝えました。憶測でしかないんですが、法政の時のコーチの様子がなんらかの方法で聞き伝わったんじゃないかなと思っています。この年はジュニアワールドチャンピオンシップというジュニア最高峰の世界大会から日本が降格した年だったんです。だから一刻も早く、戻したいという気持ちがあったのではないでしょうか?そのお手伝いができるというのは、この上なく光栄なことでした。この時、僕は36歳でした。

 大学のチームから代表選手を見るようになって、なにか変わったことはありますか?

皆選ばれてくるわけですから、選手個々の能力は当然ですが、みんな揃って高いです。けれど、心の部分は同じ20歳の選手達。そうした意味では法政大学で2年やったことが大いに活きたと思っています。この世代との接し方をゼロからさぐる必要はありませんでした。

中瀬さんのロングインタビューは後篇に続きます。次回の更新は12月16日(金)です。
次回は、代表を率いて感じていること、仕事との両立、今の東京ガスラグビー部に思うこと、選手引退後のラグビーとの付き合い方への思いなどをお届けいたします。
(インタビュア:高野美穂)

【PROFILE】
■中瀬 真広

■中瀬 真広
1996年 入社。中央事業本部 南部導管ネットワークセンター 総務グループ
2000年 南部導管事業部 計画推進部 経理グループ
2004年 緊急保安部 保安統括グループ
2008年 神奈川導管事業部 計画推進部 総務グループ
2011年 人事部 人材開発室
2015年 広報部 CSR室

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