ラグビー部の歴史 / history

第10話:栄光と苦難(語り手:宮島・守屋・尾関)

1994年に東日本リーグ(今でいうトップリーグ)に昇格、宮島さんが主将を務めた2年間を経て、主将のバトンは守屋さんに渡されます。
引き続き、部の歴史をお楽しみください。

94年からの主将宮島さんと、96年からの主将守屋さん。前代打矢さんからのバトンを引き継いだ時にはすでに、次を守屋さんに決めていたということを、この取材で初めて知らされた。

当時、宮島さんから守屋さんへのバトンはどのように渡されましたか?

守屋:汐彩丼(海鮮丼)で説得されましたねえ。(笑)  とはいえ個人的には主将をやりたいと思っていませんでした。ポジションとして学生時代から慣れ親しんだスタンドオ
フならまだしも、センターもやるようになり、自分の中で葛藤を感じていました。

当時の課題は?

守屋:必要な戦力の確保でしょうか。ちょうど会社全体の採用人数そのものが少な
くなり、選手の採用が厳しくなってきていました。自分達の頃は大卒・高卒の合計で7名程度の新入部員が入ってきていたのですが、この頃は大卒・高卒で数名程度に減っていました。さらに苦しいことに、チームを牽引してきた先輩たちが引退の時期を迎えてくる。メンバーを揃えるために、選手をどう育てるかの問題と、所属リーグを考えると外国人選手を迎えることなども検討しなくてはならない時期になってきていました。東日本リーグへの昇格は嬉しかったですが、その後の展望が見えなかった(作れなかった)のは苦しい、悔しい思い出です。

また、チームが東日本に在籍していた時期に入社をしてきたメンバーとその前からいるメンバーの間に意識の差のようなものがありましたね。東日本昇格以降に入社をした選手達は、部のモットーである両立志向でありながらも、“ラグビーをまず一生懸命やっていこうよ”という思いがあって、その前の世代は少し違う。柴田さんらの時代の記事にも意識差からくる葛藤があったことを前の記事で読んで知りましたが、この頃にもこの頃の次元で同じ衝突があった。実はそのことについては一度話し合いの場が持たれたこともあって、それでもやっぱり、東京ガスラグビー部は仕事との両立をモットーにしていこうということにまとまったんですね。とんとん拍子に昇格しすぎてしまったので、正直なところ、私自身も戸惑っていた気がします。

宮島:そうだね。僕が入社を志した頃には東京ガスラグビーは2部リーグにいたんです。それがあれよあれよと昇格してしまい、入社時には1部リーグ。その後は東日本リーグです。なんか話が違うなぁと。(笑)

尾関:同じです。高校から大学までずっとラグビーをやってきて、自分の実力は自分が一番よく分かっていたので、一番上のリーグでプレーすることは少々厳しいだろうと思い、東日本リーグにいた東芝府中、リコーらから頂いたお誘いを断って、あえて1部リーグでプレーできる東京ガスに決めました。なので、そうですね、結果、東日本リーグ…というのは、嬉しかったけれど、当初の予定とはちょっと違ってしまった感じはありましたね。(笑)

守屋:僕は主将時代に敗戦続きであまりいい思い出がないんです。というのも、宮島さんも、尾関もそうだと思うのですが、僕も学生時代、ずっと勝ってきたチームに在籍していたので、太刀打ちできずに負けたという経験がほとんどなかったんですよね。だから公式戦で大敗を経験する中で、中長期の視点で会社のラグビー部を強くしていこうという余裕を持つことができず、目の前のことに必死でした。全国大会で勝利することはできましたが、その後はご存知のとおり、自身が主将2年目の入替戦で負けて降格となりました。責任をとるつもりで、もう自分が主将を続ける筋ではないと思った。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、尾関に続きを背負ってもらったのです。尾関は苦労したと思う。東日本から降格して負け続けたチームをもう一回、上り調子にするのは本当に難しかったはず。

自分自身は主将として様々なことを経験し、人間的にも成長したと思いますが、自分がラグビー部に貢献できたことは何だったのかなと考えましたし、やらなかったほうが良かったのかなとも思いました。そのまま僕を飛ばして尾関でも良かったのかなと。

宮島:でも僕は、自分が打矢さんから主将を任された瞬間に次は守屋と決めていたし、みんなもそう思っていたと思うよ。

尾関:確かにそう思います。ところで今だから聞きますが、なんで次の主将が僕だったんですか?

守屋:(どう考えても)尾関しかいなかった。人望も厚いし、いろんなメンバーをひっくるめてもう一度、ラグビー部をまとめていけると思った。我々の世代より上のメンバーはすでに大人でいろんなことを理解してやっていけると思っていたけれど、当時は下の人間の方が多くなってきていて、尾関ならそこをまとめていけると思った。

ここからは尾関さんに聞かせてください。さきほどから「最もつらい思いをした主将」として何度かお名前がでていますが、実際辛かったですか?

尾関:精神的にはキツかったですよ。最終的に上がれなかったらどうしようかな?と思っていた。けれど、日々の練習としてはそんな辛いことばかりではなくラグビーは楽しかったし、当時は守屋さん、宮島さん、打矢さんと、歴代キャプテンかつ同じ本部出身の人が近くでフォローしてくれて、常に相談ができたんです。みんなが僕の気持ちを理解してくれ支えてくれました。

尾関さんにとって入部以降、一番印象に残っている試合といえば。

尾関:やはり忘れられないのは、1997年、東日本で全敗した後の入れ替え戦、クボタとの試合ですね。その後、僕の代では初戦の三菱重工戦を躓いてしまった。そこでチームのモチベーションが下がってしまい、降格後の1部リーグでも6位という成績に終わりました。

降格翌年からのキャプテンということで、確かにモチベーションを保つのは難しかっただろうと想像ができます。当時の状況や課題、考えていたことなどを教えてください。

尾関:もう落っこちちゃったものは仕方がないので、そこは開き直って、自分達のスタイルのラグビーをしていこうと自分では思っていました。ただ4年間東日本リーグ(現在のトップリーグ)に所属していたのを見てきた選手達にとっては、トップレベルでプレーできるということを想定して入社してきているので、やはり落胆やギャップがあったと思うんですよね。この連載の続編で彼らの気持ちも是非とも聞いてみたいけれど、やっぱりがっくりきていたと思います。つまり、僕ら3人と正反対ですよね。僕らは、2部、1部でプレーしたいと思って入社をしたら、いつのまにかトップリーグにいた。しかし、中瀬らトップレベルの選手は、トップリーグでやろうと思って入社したはずなのに、チームは降格してしまった。こうしたいろいろな思いを調整するために、正直、僕はミーティングが好きじゃないんですが、練習後、遅い時間までのミーティングも相当やりました。昔からやってきているメンバーは、仕事もちゃんとやらなくてはならないことを分かっているし、職位も上がっているので、練習への参加が苦しくなってきている。一方で、トップレベルのリーグ返り咲きが前提の選手は、仕事も勿論しっかりとやっていましたが、ある意味割り切って練習を優先していた。そういうメンバーは、練習時間に遅れることなくグランドに来ます。このような練習事情や選手ぞれぞれの思いをどう調整して理解させ、再昇格に向けてモチベーションを上げていくかが最も苦労した点だと思っています。

この後、主将には大屋を選び3年間続けてくれました。プレーで引っ張ることができて、理論も持論ももっている彼に任せたかったんです。

第10話に引き続き、次月第11話をお届けします。11話では栄光と苦難の時代を過ごした今回の3名に「東京ガスラグビー部における主将の資質を聞いています。お楽しみに!

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