ラグビー部の歴史 / history

第4話:強化決定以降(語り手:柴田・塩入・新妻・五十嵐)

引き続き、部の歴史をお届けいたします。

第3話では、それそれの入部の経緯や、強化路線を知り体制の急な変化を不安を感じていた部員がいたこと。その一方で、柴田さん、塩入さん、田中さんは入部前から強化への期待を聞かされていたことについて伺いました。その後、部はどのように変わっていったのでしょうか?

柴田:1、2話でもすでに話されていますが、グランドや寮などの整備や、入部者の勤務地への配慮など、この頃には部内のいろいろな環境が整い始めました。これはひとえに諸先輩のご尽力のおかげです。実際に、僕は初年度、神奈川導管へ配属になり、グランドが勤務地のすぐ目の前だったので、練習にとても行きやすかった。実家は都内にあったけれど、平日は寮で過ごしました。塩入とは6畳一間の同部屋の仲です。

五十嵐:彼らが入社するタイミングで、その当時の部員もほぼ全員が、武蔵小杉の寮に集められました。僕はね、寮生活が単純に楽しかったですよ。当時20歳くらいでしたから、親元を離れられて嬉しかったね。いろんな方と接点もできるし、夜の練習や土日練習が始まったりと、だんだんラグビーもカタチとなってきて、「やっと面白くなってきたな」という感覚がありました。そうそう、寮生活と言えば、柴田さんと塩入さんの部屋が、一番角にあったんだけれど、誰も寄りつかなくてね。(怖いから。(笑)) ズボンプレッサーまで置いてあるんだよ。あんなもん寮に持っていく奴は柴田さんくらいしかいない。

新妻:確かにこのころ、いろんなことが変わっていって「これから改革が始まるぞ!」という流れがあった。けれど、もちろんそれに付いてこられない人も沢山いたわけですよ。柴田、塩入には話せないようなことも当時ありました。過渡期だった。
つまりね、この急な変化に“頑張って付いて行こう”という派と、“僕らはこんなつもりではなかった”という派に分かれた。高卒をまとめ、柴田らの気持ちも聞いて両者をつなぐ存在が必要だったように思う。
今でも覚えていますよ。彼(塩入)がキャプテンになった後、どうしようと悩んでいて、「いいから思うように好きなようにやってくれ。いろんな穴埋めは僕らがやるから、嫌われてもいいからやってくれ」と伝えました。
「勝てるはずだから苦しい思いも必要。頑張れ!」と。

柴田:入社直後の村松さんらがキャプテンだった時期を経て、塩入がキャプテンを務めるようになる。その頃は、僕ら自身も、若手からの反発を感じていました。

僕らが入社した頃、3人でよく話していたんです。新日鉄釜石(現釜石シーウェイブス)みたいなチームになりたいと。
当時、新日鉄釜石は本当に強かったけれど、このチームは15人の内、ほとんどが高卒メンバーだったんです。社内の人員構成もあり、僕らもこんなチームになりたいと思った。だから大卒メンバーは自分が練習をするだけではなく、高卒メンバーのことをみる役目もあると思っていた。

創部者の皆さんによる環境整備が進み、塩入さんがキャプテンになって、模索もしつついよいよ本格的に勝利を意識したチームとして固まってきたように思います。
この後で起こったことを教えてください。

塩入:僕らの後には次々と優秀な選手が入ってきます。試合をすれば負けることがなく、チームとしてはイケイケな時代です。一方で、部員も増えてマネジメントが必要になってきます。

柴田:そこで毎日の生活からきちんとしていこう、ということになった。例えば、部屋を突然開けて、たばこ吸っていないか抜き打ちチェックをしたりしてね。大学のときはそういうことは当たり前にやっていたし、勝つために私生活をしっかりしていきたいと、良かれと思ってやっていたんだけれど、私生活も含めて厳しくするものだから、嫌われもしました。

塩入:どっちを目指すかなんですよ。真剣にやって勝ちにいくのか、そこそこやって楽しむのか。最初の頃は、そのあたりがやや曖昧でした。僕らは勝ちたいけれど、もとから在籍している部員の中にはそれが目標ではない人も当然いるわけです。両者はどうしたってぶつかります。打ち明けると、どこまで厳しくしていいのかをめぐって、未だに後悔しているエピソードもあります。練習態度がいい選手と、実力のある選手、どちらを起用するのか迷った機会も多々ありました。
こうした不満を五十嵐さんや新妻さんが間に入って根気強く橋渡ししてくれた。それから田中秀樹も、時には道化役を買って出ながらよく両サイドをつないでくれた。

柴田:塩入とはね、部屋も同じだし、チームを今後どうしていこうかってことをよく話していたんですよ。ただし、この2人だけで話すと、どうしても厳しい路線になりがちで、そこをソフトな田中秀樹が上手く和らげてくれていました。田中は高卒メンバーとも本当によく飲みに行っていてね、どうやら田中にだけは高卒メンバーも本音で話していたみたいだった。残念ながら僕と塩入では聞けない話が彼のもとには寄せられていたんです。

:奇跡の3人組(夏合宿(北海道北見市)にて。左から田中、柴田、塩入)(1990年8月撮影。3人だけで写っている写真はこの一枚しかない)

柴田:よくシーズン終了後、田中と塩入と僕の3人で反省会をやっていたよな。

五十嵐・新妻:え~~、知らないよ、そんなこと!

柴田:やってたんですよ。来年はこんなところを変えよう、強化しよう、なんてことを熱く話していた。期待を寄せられながら、当時チームがなかなか一つになっていかないということに、責任を感じていました。

五十嵐:確かにその3人だと、一緒に飲んでる時間が圧倒的に長いという単純な理由で、僕らとしては田中さんが話しやすかった。彼がすごいと思うのは、メリハリがすごく利いているんです。飲む場では伝説に残るいくつかの芸をしたり、たくさんの馬鹿をするんですが、ひとたびグランドにでると、人一倍走るし、声も出す。言葉よりも背中で見せるようなところがあって、若い高卒のメンバーなんかからすると一番説得力がありましたね。

菅平の夏合宿打ち上げ集合写真(1989年)

塩入:自然と役割分担ができていったんだよな。

柴田:塩入はプレーと言葉で引っ張る、僕はチーム全体をマネジメントしていく、田中は心のフォロー。こうした分担は先に決めてできるものではなくって、本当に偶然、自然とこうなったんです。だから前回のこの記事に書かれているように、樋野さんたちは、僕らのことを「奇跡の3人」なんて呼ぶことがあるみたいです。
田中は高校まではキャプテンをしていたんだけど、大学時代は4年生まで試合に出られなかった苦労人なんです。だから、リザーブや試合に出られない選手の気持ちもよく理解できたんじゃないかな。

:練習が終われば、底抜けに明るい当時のメンバー(1990年北見合宿での一コマ)

第4話に引き続き、次週第5話をお届けいたします。(2014年7月28日更新予定)

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